2013年9月3日火曜日

【1923年9月の四ッ木橋付近】

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1923年9月2日午前5時に、曺仁承(チョ・インスン)さんが薪の山のように積まれた死体を目撃した四ッ木橋の周辺では、その後も数日間、朝鮮人虐殺が繰り返された。

何度か引用してきた、関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会編『風よ鳳仙花の歌をはこべ』(教育史料出版会、1992年)には、同会がこの付近で地元のお年寄りから聞き取った証言が数多く紹介されている。毎週日曜日に手分けして地域のお年寄りの家をまわり、100人以上に聞き取りを行った成果であった。その時点で震災から60年が経っていることを思えば、最後の機会を捉えた本当に貴重なものだ。

ただ、60年という歳月のため、日にちや時間などははっきりしないものが多い。また、実名で証言することに二の足を踏む人は、仮名での証言になっている。

私たちのブログは、ある日時を切り取って取り上げることを企画のスタイルとしているが、今回は、9月1日から数日間の四ツ木橋周辺の凄惨な状況を伝えるものとして、これらの貴重な証言をいくつか紹介する。

荒川西岸から木根川橋を望む

「四ッ木の橋のむこう(葛飾側 編者〈ほうせんか〉注)から血だらけの人を結わえて連れてきた。それを横から切って下に落とした。旧四ッ木橋の少し下手に穴を掘って投げ込むんだ。(中略)雨が降っているときだった。四ツ木の連中がこっちの方に捨てにきた。連れてきて切りつけ、土手下に細長く掘った穴に蹴とばして入れて埋めた」(永井仁三郎さん)

「今の京成荒川駅(現・八広駅)の南側に温泉池という大きな池がありました。泳いだりできる池でした。追い出された朝鮮人7、8人がそこへ逃げこんだので、自警団の人は猟銃をもち出して撃ったんですよ。むこうに行けばむこうから、こっちに来ればこっちから撃ちして、とうとう撃ち殺してしまいましたよ」(井伊〈仮名〉)

「たしか三日の昼だったね。荒川の四ッ木橋の下手に、朝鮮人を何人もしばってつれて来て、自警団の人たちが殺したのは。なんとも残忍な殺し方だったね。日本刀で切ったり、竹槍で突いたり、鉄の棒で突き刺したりして殺したんです。女の人、なかにはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました。私が見たのでは、30人ぐらい殺していたね」(青木〈仮名〉)

「上平井橋の下が2、3人でいまの木根川橋近くでは10人くらいだった。朝鮮人が殺されはじめたのは9月2日ぐらいからだった。そのときは『朝鮮人が井戸に毒を投げた』『婦女暴行をしている』という流言がとんだが、人心が右往左往しているときでデッチ上げかもしれないが…、わからない。気の毒なことをした。善良な朝鮮人も殺されて。その人は『何もしていない』と泣いて嘆願していた」(池田〈仮名〉)

「警察が毒物が入っているから井戸の水は飲んではいけないと言ってきた」という証言も出てくる。

同会による「旧四ツ木橋付近 関東大震災 朝鮮人虐殺事件地図」
http://www.maroon.dti.ne.jp/housenka/map.html
上記以外にも、多くの証言が書き込まれている。

かつて旧四ツ木橋がかかり、今も新四ツ木橋や木根川橋などがかかっている「荒川放水路」は、実は人工の川である。1911年に着工し、1930年に完成した。1923年の震災当時はまだ工事中で、土砂を運ぶトロッコが走るレールが河川敷に敷かれていた。建設作業には多くの朝鮮人労働者が従事していた。彼らは、自分たちが建設に尽力した場で殺されたのである。

9月2日から3日にかけて、軍が進駐してくると、今度は機関銃を使った軍による虐殺が始まる。それについての証言は明日、あらためて紹介したいと思う。



2013年9月7日(土)には、上記の本の出版をはじめ、遺骨発掘や朝鮮人虐殺の事実の掘り起こし、そして追悼を続けてきた「一般社団法人ほうせんか(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会)」主催による「韓国・朝鮮人犠牲者追悼式」がかつての四ッ木橋のたもと付近の河川敷で開かれる。同会は、1982年から毎年、追悼式を続けてきた。

関東大震災90周年 韓国・朝鮮人犠牲者追悼式とほうせんかの夕べ
2013年9月7日(土) 15時~ 荒川河川敷(京成押上線八広駅から徒歩5分)
http://moon.ap.teacup.com/housenka/125.html

(次の更新は9月3日昼ごろの予定です)

旧四ッ木橋のたもと付近

September, 1923, in the vicinity of Yotsugibashi Bridge
100 elderly people interviewed in the 1980's by a citizens' group testified that many Koreans were murdered near Yotsugibashi Bridge while taking refuge at the river bank.
The group helds memorial service for the Korean victims every year.

1923년 9월의 요츠기바시(다리의 이름)부근.
80년대에 시민 단체가 노인 100명에게 조사하면 요즈기바시 부근에서의 조선인 학살의 증언이 많이 나왔다. 이 부근은 많은 조선인이 학살된 현장이었다. 시민 단체는 매년 한국・조선인 희생자 추도식을 실시하고 있다.

En septembro 1923, ĉirkaŭ la ponto Yotsugibashi.
En 1980 jaroj civitana grupo enketis maljunulojn. Aperis multaj atestoj de buĉoj al koreoj ĉirkaŭ Yotsugibashi. Ĉirkaŭ ĉi tie estas aktualaj lokoj de buĉoj al multaj koreoj. La civitana grupo funebras koreajn viktimojn ĉiujare.