2013年9月2日月曜日

【1923年9月2日未明/品川警察署前  「朝鮮人を殺せ」】

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当時、品川警察署があった付近


「品川警察署は数千の群衆に取り囲まれていました。彼らは私たちを見るや、オオカミの群れのように襲いかかってきました。そのときの恐怖は言葉や文章では表すことができません」

2日未明、全錫弼(チョン・ソクピル)さんたちがようやくたどり着いたとき、品川警察署(現在の南品川1丁目)は、二重三重に群衆に取り囲まれていた。

全さんは12人の同胞とともに飯場で暮らし、大井町のガス管敷設工事の現場で働いていた。当時、ダム建設などの建設労働に従事するために多くの朝鮮人が日本に渡り、飯場などで暮らしていた。

地震当日、1日の夕方には、大井町では往来に日本刀や鳶口、ノコギリなどを持った人々が早くも現れ、「朝鮮人を殺せ」と叫びながら練り歩き始めた。「私には何の理由で殺されなければならないのか、さっぱり見当がつきません。はじめのうちは、そんな馬鹿なことが…と信用しませんでした。ところが、外をのぞいてみると、道の両側に武装した人が要所要所を固めるように立っていました」(全さん)。そのうちに親しい日本人たちが血相を変えて飛び込んで来る。大変なことになっている、外に出たら殺されるぞ、私たちがなんとかするからじっとしていてくれ―。

夜遅く、警官と兵士、近所の日本人たち15、6人がやってきた。
「警察に行こう。そうしなければお前たちは殺される」。
宿舎の戸を釘付けして、全さんを含む朝鮮人労働者たちは品川署に向かった。前後に警官と兵士、横を近所の人たちが固めて歩く。

大通りに出ると、自警団が喚声をあげて襲いかかってきた。「この連中は悪いことをしてはいない、善良な人たちだから手を出さないでくれ」と周囲を固める近所の人たちは叫び続けるが、その隙間から次々と竹やりが突き込まれ、頭を叩かれる。「襲われた回数は思い出せないほど多数にのぼりました」(全さん)。

大井町から品川署にたどり着くのに数時間かかった。そこもまた、殺気立った人々の群れに囲まれていたのだが、そのうちに署内から警官隊が出動して全さんたちを救出し、署内に引き入れた。警察署を取り囲む群衆の騒ぎは朝まで続いたという。

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以上は朝鮮大学校『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』掲載の全錫弼さんの証言を「知らせ隊」でまとめたもの。

大井町だけでなく、品川各地でこうした騒動が起きていた。『品川区史通史編』は、震災翌日の2日、日本刀や鳶口で武装した自警団が各地に出現したと記している。その暴走はいくつもの惨劇を引き起こした。大崎では、星製薬で作業員として働く「金容宅」ほか4人の朝鮮人が鳶口などで乱打されて重傷を負い、平塚でも1人の朝鮮人が竹ヤリや天びん棒で襲われ重傷、翌3日にも同じ場所で朝鮮人1人が重傷。品川町では地元に住む明治大学の日本人学生が朝鮮人と間違われて竹ヤリ、鳶口、日本刀で襲撃され、病院に搬送されたが結局亡くなった。

品川警察署は「薄暮爆弾所持の鮮人ありとて重傷を負はせ拉し来りたるを調査するに、大和煮缶詰と二瓶の麦酒を所持したるに過ぎず」というエピソードを記録している。同署とその大崎分署は、合わせて130人前後の朝鮮人を保護したという。

品川がとくにひどい状況だったわけではない。同じ頃、同様の出来事は各地で起こっていたし、もっとひどいことになっている地域もあった。たとえば荒川にかかる四ッ木橋周辺である。


参考資料:朝鮮大学校『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』、品川区『品川区史通史編下巻』(琴秉洞編『朝鮮人虐殺関連官庁史料』緑陰書房に収録)。東京市役所『東京震災録』(同上)。

(次は2日朝5時ごろ更新予定です)

当時の品川警察署のおおよその位置(google map)


北品川で

Before dawn on on September 2nd, 1923, at Shinagwa, Tokyo
Guarded by neighbors and police officiers Chun Sok-pil, a construction worker, made his way through the crowd with knives and bamboo spears in hands shouting, “Kill Koreans!”, managed to run into the Shinagawa Police Station for help.

1923년 9월 2일 심야, 도쿄・시나가와(品川).
거리에는 칼날이나 대나무의 창을 갖고 “조선인을 죽여라!”라고 외치는 군중이 모여 있었다. 건설 노동자 전석필씨는 근처의 친한 일본인들과 경관의 방위에 의해서 군중의 공격을 막으면서 이동해 안전한 시나가와 경찰서에 피난했다.

Antaŭ tagiĝo de la 2-a de septembro 1923, en Shinagawa, Tokio. Kvankam japana popolamaso kiu kunportis tranĉilojn aŭ bambuajn lancojn vagis criante “Mortigu koreojn!”, korea konstrulaboristo CHUN Sok-pil gardate de japanaj konatoj najbaraj kaj policisto, povis fuĝi en sekuran policejon Shinagawa.