2013年9月3日火曜日

【1923年9月3日午前/上野公園 流されやすい人】

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私がちょうど公園の出口の広場に出た時であった。群集は棒切などを振りかざして、ケンカでもあるかのような塩梅(あんばい)である。得物を持たぬ人は道端の棒切を拾ってきて振り回している。近づいて見ると、ひとりの肥えた浴衣を着た男を大勢の人達が殺せ、と言ってなぐっているのであった。

群集の口から朝鮮人だと云う声が聞えた。巡査に渡さずになぐり殺してしまえ、と云う激昂した声も聞こえた。肥えた男は泣きながら何か言ってる。棒は彼の頭といわず顔といわず当るのであった。

こやつが爆弾を投げたり、毒薬を井戸に投じたりするのだなと思うと、私もつい怒気があふれて来た。我々は常に鮮人だと思って、憫(あわれ)みの心で迎えているのに、この変災を機会に不逞(ふてい)のたくらみを為るというのは、いわゆる人間の道をわきまえないものである。この如きは宜しくこの場合血祭りにすべきものである。巡査に引渡さずになぐり殺せと云う声はこの際痛快な響きを与えた。私も握り太のステッキで一ツ喰はしてやろうと思って駆け寄っていった。

渋川藍泉『震災日記』染川藍泉『震災日誌』日本評論社)
(訂正/14年2月2日。名前、書名を間違っておりました。申し訳ありません)
※読みやすさを考慮して新かなづかいとし、一部の漢字をかなに開いた。



「私」(染川)はしかし、すぐに考え直して立ち止まる。神経が過敏になっているこの群衆に近づいていって、万が一自分のほうが朝鮮人に間違えられたら危ないじゃないか…。そうこう迷っている間に兵士が現れて、浴衣の男は連行されていく。「私は自分の今のすさみ切った心に、彼奴がなぐり殺されなかったのを惜しいように思った」。

染川は十五銀行本店の庶務課長で、震災当時43歳。典型的なホワイトカラー上層である。藍泉は俳号で、本名は春彦。震災では日暮里の家にも家族にも何の被害もなく、9月中は一日も休まず銀行業務の復旧のために精勤していた。

染川は「朝鮮人が爆弾を投げている」といった流言を最初から信じていたわけではない。むしろ、前日(2日)の昼間までは、そうしたうわさに振り回される「愚かな人」を軽蔑していた。「この不意に起こった災害を、鮮人が予知することが何でできるものか」「現に火事場の爆音を聞いた私は、それが包装した樽や缶の破裂する音であると云う確信を得ていた」「何も知らぬ鮮人こそ好い面の皮であった」。

ところがその夜、避難先の線路脇で「井戸の中に劇薬が入れてあると云うから、諸君気をつけろよう」という青年団の声が闇の中に響くのを聞くうちに、不安が膨らんでくる。「私は弾かれたように眠りから醒めた。そして考えた。これは路傍の無智な人たちのうわさではない」。青年団が広めるからには何か証拠があってのことに違いない。「さすれば私の宅の井戸も実に危険千万である」。

こうして翌日朝、暴行される朝鮮人らしき男を目の当たりにしたとき、彼の心には「毒薬を井戸に投じたりする」朝鮮人への怒りがあふれたというわけなのである。

上野公園には多くの避難民が流れ込み、混乱を極めていた。作家の佐藤春夫は、町会で自警団として動員され、いもしない敵におびえて深夜の上野公園で右往左往した経験をエッセイに記している。染川が上野公園出口付近を通りかかるのは、その数時間後だ。あるいは浴衣の男は前夜の上野公園で「摘発」されたのだろうか。

染川は、この翌日には冷静さを取り戻し、「朝鮮人暴動」を否定してみせている。「あまりに話がうがちすぎている。…うろたえるにも事を欠いて、憫(あわれ)んで善導せねばならぬ鮮人を、理非も言わせず叩き殺すということは、日本人もあまりに狭量すぎる。今少し落ち着いて考えて見て欲しいと私は思った」。憫(あわれ)んで善導…。

『震災日誌』中には、「(十五銀行)深川支店の前には鮮人が三人殺されて居った。電柱に括り付けられて日本刀で切られて居った。それは山下支店長が実際を見て来ての話であった」という記述もある。

ちなみに朝鮮独立派による関東大震災報告『虐殺』(1924年)に、上野公園付近での朝鮮人の被害として、「重傷3人」と記録されている。名前は「全羅南道光州郡西倉面西竜頭里 金炳権、同道長興郡 李乃善、同道光州郡 李○○」。

(次の更新は3日午後3時ごろを予定しています)



In the morning of September 3, 1923, at Ueno Park, Tokyo
Aizen Shibukawa got angry to think the Korean was one of those criminals. The 43-year old bank staff even felt like getting involved in the attack when witnessing the Korean being battered by crowd.
In fact he laughed off the rumor until the previous day that Koreans had set bombs. But as he listened to youth groups broadcasting crimes allegedly committed by Koreans again and again he began to feel anxiety and found himself believing such rumors.


1923년 9월 3일 오전. 도쿄・우에노 공원(上野公園).
43세의 은행원, 소메카와 아이젠(染川藍泉)은 군중이 조선인을 때리고 있는 현장을 본다. 이 놈이 폭탄을 던졌는가라고 시부카와는 분노를 느껴 때려 죽이고 싶다고 생각한다. 시부카와는 인텔리로서 전날의 낮까지는 그런 뜬소문을 웃고 있었다. 그런데 그 밤, 청년단이 조선인의 범죄를 선전하고 있는 소리를 들어 불안하게 되어, 어느새 뜬소문을 믿게 되었던 것이다.

Antaŭ tagmezo en la 3-a de septembro 1923, la parko Ueno.
Bankisto SHIBUKAWA Aizen 43 jaraĝa propraokule vidis ke popolamaso batis koreon. Li pensis la koreo ĵetis bombon kaj sentis koleron eĉ volis mortigi la koreon batante. Li kiel intelektulo ne kredis onidiron kaj ridis ĝin ĝis la tago de antaŭa tago. Tamen tiu vespere li sentis timon pro la propagando pri krimoj de koreoj fare de junulara asocio. Dum li ne rimarkis, li kredis demagogion.