2013年9月10日火曜日

【1923年9月/小平市・喜平橋 東京西部地域での朝鮮人迫害の状況】

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地震の後には必ず火事が付き物。当然、関東大震災のときも東京は火災が発生して東京中が火の海と化して、9月1日の夜は小平からも東の空が真赤に見え炎がメラメラ燃え上がるのも見えるほどだった。当時の東京は殆んど木造平屋の燃えやすい建物であった為、忽ち東京中が火の海になったのである。次の日9月2日になってもまだ東の空が夕焼けのように真赤に見えたほどだった。

この時、誰が何処で言い出したのか大変なデマが飛んで「外国人が川の中へ毒を投げ入れたから水が飲めなくなった」とか、東京に火を点けたのは○○外国人だとか、とんでもないデマが飛び大騒ぎとなった。もうすぐその連中が小平に押し寄せて来るという騒ぎになり大変なパニックになってしまった。

何とか食い止めなければということで回田新田の大人はみんな集まれということになり、各自竹槍、鎌、鍬等を手に茜屋橋に集まったという。山家、野中の人達は喜平橋に、上鈴木の人達は久衛門橋にということで、今日も明日も明後日も毎日待機をしていたそうである。

その後この件でどんな犠牲が出たのか出なかったのか分からない。

(神山金作『ふるさと昔ばなし』〈私家版〉 「小平ふるさと村」に所蔵)


(9月11日追記:タイトルを「東京東部地域~」と間違えていました。もちろん正しくは「東京西部地域~」です)

喜平橋、茜屋橋、久衛門橋は小平市内、五日市街道に沿って流れる玉川上水にかかる橋。国分寺駅から北へ2キロ弱、北上したあたりにある。

当時は東京府北多摩郡小平村。西武線が通り、宅地が切り開かれていくのは昭和に入ってからで、この当時はまだ農村であった。人口約6000人。

都心の混乱から遠く離れた、森深いこの小平村にさえ、自警団が結成されたのである。府中署、八王子署、青梅署といった警察署の後日の報告を見ると、これらの地域でも、人々が朝鮮人の攻撃を恐れて山林に逃げ込み、自警団を結成して武装し、「朝鮮人が吉祥寺巡査駐在所を襲う」「朝鮮人と社会主義者が八王子に大挙して押し寄せてくる」といった流言に右往左往していたことが分かる。

このブログを始めて、よく耳にした感想が、「朝鮮人虐殺は東京東部地域の話だと思っていた、自分の住む西部地域でもあったことがわかって驚いた」といったものだった。もちろん、東京西部でも自警団は結成され、朝鮮人への迫害も起きている。記録に残る殺害件数は確かに少ないが、これは当時、この地域の人口自体が少なかったからにすぎないのかもしれない。もちろん、記録に残っていない殺人があった可能性は大いにある。実際、朝鮮独立派による調査では中野1人、世田谷2人、府中2人死亡となっている。(追記。政府によるまとめで見ると、東京西部地域の死亡者は世田谷・太子堂1、千歳烏山13。日本人を朝鮮人と誤認して殺害したのは品川3、四谷1、広尾1。地名は現在のもの)

以下に、東京西部に住む読者にとってなじみの深い地域の警察署の流言関連報告から少しずつ紹介しておく。ただし、警察署の自己評価であるため、どの報告でも警察は冷静沈着なヒーローとなっている。事実は必ずしもそうではなかったことは、すでに書いてきたとおりである。


淀橋警察署(現在の新宿警察署)
「早稲田に於て鮮人4名が放火せるを発見せしが其内(そのうち)2名は戸山ケ原より大久保方面に遁入せり」との報告に接す、是に警戒及び捜査の為巡査5名を同方面に派遣せしが、幾(いくら)もなく、又「鮮人等が或(あるい)は放火し、或は爆弾を投じ、或は毒薬を撤布す」の流言盛んに行はれて、鮮人の迫害随所に演ぜられ、之を本署に同行するもの亦(また)少なからず。

中野警察署
即ち其訛伝(誤報)、蜚語(流言)に過ぎざる事を民衆に宣伝し、人心の安定を図るに努めたるにも拘(かかわ)らず、容易に之を信ぜず、却(かえっ)て悪化の傾向ありし。

渋谷警察署
然れども民衆は固く鮮人の暴行を信じて疑はず、遂に良民と鮮人と誤解して世田谷附近に於て銃殺するの惨劇を演ずるに至り騒擾(さわぎ)漸く甚しく、流言亦次第に拡大せられ、同3日には「鮮人等毒薬を井戸に投じたり」と云ひ、果ては「中渋谷某の井戸に毒薬を投ぜり」とて之を告訴するものありたれども就きて之を検するに又事実にあらず…自警団の警戒亦激越となり、戒凶器を携へて所在に徘徊し…挙動不審と認められるものは直ちに迫害せらるるなど粗暴の行為少なからず。
(文中の世田谷の殺害事件は、政府の報告書の表にはこう記録されている。日時:9月2日午後5時。場所:〈東京〉府下世田ケ谷町大字大子堂425附近道路。犯人氏名:小林隆三。被害者氏名:鮮人(氏名不詳)。罪名:殺人。犯罪事実:猟銃を以て頭部を撃ち殺害す)

世田谷警察署
鮮人を本署に拉致するもの2日の午後8時に於て既に120名に及べり。…4日に至りて鮮人、三軒茶屋に放火せりとの報告に接し、直(ただち)に之を調査すれど、犯人は鮮人にあらずして家僕(使用人)が主家の物置に放火せるなり。

板橋警察署
本署は鮮人に対して外出の中止を慫慂し(勧め)、以て其危険を予防せしも、民衆の感情は次第に興奮し、遂に鮮人の住宅を襲撃するに至りしかば…。

麻布六本木警察署
斯くて自警団の成立を促し、之が為に1名の通行人は鮮人と誤解せられ、霞町に於て群衆の殺害する所となれり。

赤坂青山警察署
同4日午後11時30分、青山南町5丁目裏通方面に方り、数ケ所より、警笛の起ると共に、銃声が亦頻り(しきり)に聞こゆるに至りて鮮人の襲来と誤認し、一時騒擾を生じたりしが、其真相を究むれば、附近邸内なる(附近の屋敷の)、月下の樹影を鮮人と誤解して警戒者の空砲を放てるものなりき。

四谷警察署
鮮人に対する迫害、到る所に起れり。

牛込早稲田警察署
早稲田・山吹町・鶴巻町方面に於ては、恐怖の余り家財を携へて避難するもの多し、是に於て署長自ら部下を率いて同地に赴き、民情の鎮撫に努め、且つ曰く「本日爆弾を携帯せりとて同行せる鮮人を調査するに爆弾と誤解せるものは缶詰、食料品に過ぎず、其の他の鮮人も亦遂に疑ふべきものなし、放火の事、蓋し訛伝に出るなり」と。

喜平橋(google map)

参考資料:神山金作『ふるさと昔ばなし』〈私家版〉、『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』(みすず書房)


September, 1923
Western Tokyo


As rumors such as riots or fire-settings by Koreans were spreading vigilante groups were formed one after another even in western Tokyo with little damage by the disaster.
According to a government survey 19 were murdered in western Tokyo, including 5 Japanese who were mistakenly murdered as Koreans, but the actual death toll may be higher.