2013年9月19日木曜日

【ある演劇青年の受難、そして間違えて殺された日本人について】

日本語/English

1923年9月2日の夜。19歳の演劇青年、伊藤国夫は興奮していた。軍が多摩川沿いに展開し、神奈川県方面から北上してきた「不逞鮮人」集団を迎え撃って激突しているという噂を耳にしたからだ。戦場は遠からずこの千駄ヶ谷まで拡大してくるに違いない。彼は二階の長持の底から先祖伝来の小刀を持ち出し、いつでも使えるように便所の小窓の下に隠しておいて、向かいの少年とともに家の前で杖を握って「警備」についた。

だが、いつまでたっても何も始まらない。業を煮やした彼は、千駄ヶ谷駅近くの線路の土手に登って「敵情視察」を試みる。すると闇のなか、後ろの方から「鮮人だ、鮮人だ!」という叫び声が聞こえるではないか。さらに、こちらに向かっていくつもの提灯が近づいてくるのが見える。朝鮮人を追っているのだ。よし、はさみ撃ちにしてやろう。伊藤は提灯の方向にまっしぐらに走り出した。

(以下、引用)
そっちへ走って行くと、いきなり腰のあたりをガーンとやられた。あわてて向きなおると、雲つくばかりの大男がステッキをふりかざして「イタア、イタア」と叫んでいる。登山杖をかまえて後ずさりしながら「違うよ!…ちがいますったら!」といくら弁解しても相手は聞こうともせず、ステッキをめったやたらに振りまわしながら「センジンダア、センジンダア!」とわめきつづける。

そのうち提灯たちが集まって来て、ぐるりと私たちを取りまいた。見ると、わめいている大男は、千駄ヶ谷駅前に住む白系ロシア人(ロシア革命時に日本に亡命してきたロシア人)の羅紗売りだった。そっちは朝鮮人でないことは一目でわかるのだが、私の方はそうは行かない。その証拠に、棍棒だの木剣だの竹槍だの薪割だのをもった、これも日本人だか朝鮮人だか見分けのつきにくい連中が、「畜生、白状しろ」「ふてえ野郎だ、国籍をいえ」「うそをぬかすと、叩き殺すぞ」と私をこづきまわすのである。

「いえ、日本人です。そのすぐ先に住んでいるイトウ・クニオです。この通り早稲田の学生です」と学生証を見せても一向ききいれない。そして薪割りを私の頭の上に振りかざしながら「アイウエオ」をいってみろだの、「教育勅語」を暗誦しろだのという。まあ、この二つはどうやら及第したが歴代の天皇の名をいえというには弱った。

(千田是也「わが家の人形芝居」『テアトロ』1961年5号。『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』より重引)


この直後、自警団のなかにいた近所の人が彼に気づき、伊藤は怪我もせずにすんだ。彼は後に、この出来事にちなんで「千田是也」という芸名を名乗るようになる。千駄ヶ谷のコリアンという意味である。千田是也はその後、俳優座を立ち上げるなど、演出家、俳優として成功し、89歳で亡くなった。

彼は運がよかった。当時、朝鮮人に間違えられて殺された日本人や中国人は数多くいる。

政府のまとめでは、朝鮮人に間違えられて殺された日本人は58人。これは犯人が逮捕され、司法手続きの対象となっているものを数えているだけなので、実際にはもっと多くの人が殺されているだろう。記録されている殺害方法は実に残酷だ。たとえば「竹槍、鳶口及び棒を以て乱打し日本刀にて斬付け又は足蹴して」、あるいは「河中にて日本刀を以て後頭部を斬付」け、あるいは「帆桁薪梶柄を以て頭部腰部を殴打し水中に溺死せしめて」、「石塊を投付け」て、「木剣、金熊手、バット等を以て殴打」し、「針金にて後手に縛し竹の棒、鳶口等」で、という具合。

有名なのは千葉県で起きた福田村事件だ。香川県から薬の行商にやってきた親族集団が、朝鮮人と間違われて襲撃を受け、鳶口や棍棒で刺されたり殴られたりしたあげく、8人が利根川に投げ込まれて溺死させられ、逃げた1人は斬り殺された。1923年11月29日付の東京日日新聞は「被害者、売薬商人の妻が渡船場の水中に逃げのび乳まで水の達する所で赤児をだきあげ『助けてくれ』と悲鳴をあげていた」と報じている(『いわれなく殺された人びと』)。

浦安では「日本語がうまくしゃべれず殺された」沖縄県人がいたという証言もある(『関東大震災と朝鮮人虐殺』)。

当時の政府は、これらの日本人殺害について、朝鮮人虐殺という問題の本質をぼやかす方向で積極的に位置づけようとした気配がある。臨時震災救護事務局が極秘でまとめた「鮮人問題に関する協定」(1923年9月5日)には、こうある。

「朝鮮人にして混雑の際危害を受けたるもの少数あるべきも、内地人(日本人)も同様の危害を蒙りたるもの多数あり。皆混乱の際に生じたるものにして、鮮人に対しことさらに大なる危害を加えたる事実なし」

だがこれは詭弁である。これらの日本人はみな、朝鮮人に間違えられたからこそ殺されたのだ。言いかえれば、犯人は、相手を朝鮮人と思って殺したのである。上の言い分では、まるで殺された中にたまたま朝鮮人もいただけであるかのようだ。朝鮮人も日本人も同様に混乱の犠牲になった、というようなまとめ方は事実に反する。

また、上に紹介したような残酷な殺害方法も、「朝鮮人だと思った」相手に向けられたものである。つまり、はるかに多くの朝鮮人が、同様に残酷な方法で殺されたことを意味している。

もうひとつ、千田是也のエピソードで見落としてはならないのは、彼はそもそも短刀や杖を武器に、倒すべき「不逞鮮人」を求めて走っていったということだ。たまたまぶつかったのがロシア人であったために(そして知人が居合わせたために)笑い話に終わったが、本当に朝鮮人にぶつかっていたらどうなっただろうか。彼は純然たる被害者ではないのである。



参考資料:関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会)、千葉県における追悼・調査実行委員会編『いわれなく殺された人びと』(青木書店)、朝鮮大学校『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』

Thursday, September 19, 2013
Fortune and Misfortune for Koreya Senda/Mistakenly Murdered Japanese


Instead of encountering "the insurgent Koreans" a student, who later became known as a famous director
Koreya Senda, was surrounded by a vigilante group who mistook him for a Korean.
He was lucky enough to be identified as a Japanese, but according to a government document 58 Japanese were murdered in the aftermath of the quake including the 9 family members from Kagawa Prefecture who were thrown into Tonegawa River and drowned to death by vigilante groups who mistook them for Koreans - known as the Fukudamura Village Case (Chiba Prefecture).

The death toll was certainly more than 58, and a lot more Koreans were also brutally murdered. The facts that we must bear in mind that these Japanese were murdered precisely because they were all mistaken for Koreans, and that Koreya Senda was not genuinely a victim since he was there with swords to beat up Koreans.