2013年10月3日木曜日

【俯瞰的な視点② いったい何人が殺されたのか】

いったい何人が殺されたのか。

これについては「正確なことはわからない」というのが研究者の一致した見解のようだ。当時、政府は虐殺の全貌を調査しようとせず、むしろ「『遺骨ハ内鮮人判明セザル様処置』し『起訴セラレタル事件ニシテ鮮人ニ被害アルモノハ速ニ其ノ遺骨ヲ不明ノ程度ニ始末』する方針」(『震災と治安秩序構想』)を打ち出すなど、事件の矮小化、ごまかしに努めたからである。

朝鮮人殺害によって起訴された事件はたった53件で、その被害死者数をカウントすると233人(司法省まとめ。内務省では231人)になる。だが言うまでもなく、この233人は、立件された事件のなかの被害者総数にすぎず、虐殺された人の総数とは言えない。

さらに政府は、刑事事件として立件するものをあらかじめ「顕著なるもののみに限定」する方針だった(「臨時震災救護事務局警備打合せ/大正12年9月11日決定事項」。『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』収録)。理由は「情状酌量すべき点少なからざる」(同)からだという。あまり逮捕者を増やすと矛先が警察や軍の責任追及へと向かうことになるのを恐れたというのが本音だろう。実際、そういう声があがったことで、起訴された人々の最終的な量刑も非常に甘くなった。

その「限定」に当たっても、「警察権に反抗の実ある」(同)事件がもっとも重視された。朝鮮人殺害そのものよりも、警察に反抗して治安を乱したほうが重要だったわけである。その結果、埼玉や群馬で起きたような、警察署を襲って朝鮮人を殺した事件が大きな存在感を占める一方で、虐殺証言が多かった横浜市では2人の死についてしか事件化されていないという具合になる。

あれだけ多くの目撃証言がある四ッ木橋周辺でも、最大で10人の死についてしか立件されていない。9月5日の羅漢寺(西大島駅)での殺害は、記事でとりあげた渡辺政雄さんの証言だけでなく「黒龍会」(有力な右翼結社)の調査にも登場するが、やはり立件されていない。暴行の怪我がもとで収容所で亡くなった人も、収容所から引き出されて殺され、98年に遺骨が発掘された高津の6人も、このなかには数えられていない。もちろん軍の「適正な」武器使用の犠牲者も入っていない。「233人」とは、そういう数字にすぎないのだ。

姜徳相は、『関東大震災・虐殺の記憶』のなかで、よく知られている朝鮮独立派の「独立新聞」調査による「6661人」という数字のほかに、同じ調査団の途中までの調査に基づく吉野作造の「2613人」、黒龍会の調査に基づく「東京府のみで722人」、新聞報道に表れている死者数を合計した「1464人」の数字を示している。これらはもちろん、目安として参考にする以上の正確さは期待できないだろう。

身元がわからないように遺体や遺骨を処分したり、「なるべく限定しよう」という方針の下で立件された事件の被害者総数が233人であること。10万人が地震と火災で亡くなり、避難民が大移動している状況では、「限定」の意図以前に、警察が認識できてもいない事件が多数あったと想像されること。また、子どもの作文に殺人の話が出てきても誰もあやしまない(そのまま東京市の震災記念文集に収録されたりしている)ほど多くの目撃証言があり、そのなかには信頼度の高いものも少なくないことを思えば、実際に殺された朝鮮人の数は3ケタ4ケタ(1000~数千人)にのぼると考えて不自然ではない―私たちにはそのように思える。

中国人殺害については、東大島で殺された人に各地で朝鮮人に間違われて殺された人を加えると、200数十人~750人の間と推定されている(日弁連「関東大震災人権救済申立事件調査報告書」)。


参考資料:宮地忠彦『震災と治安秩序構想』(クレイン)、『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』(みすず書房)、姜徳相『関東大震災・虐殺の記憶』(青丘文化社)、日弁連「関東大震災人権救済申立事件調査報告書」(http://www.azusawa.jp/shiryou/kantou-200309.html)

修正情報:2013年10月10日午前11時、最後から2つ目の段落で1箇所、修正しました。誤字です。